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逗子が「逗子」になった謎を解く

中世が見える街 逗子の魅力

私は逗子に住んでいる。生まれ故郷ではないが、もう十数年暮らしている。

「ああ逗子ですか。いいですねえ。私の知り合いも住んでるんですけど、海も山もあって素敵なところですよね」

「逗子マリーナにはよく行きました」

「映画祭を浜辺でやっていたりしますよね」

というような反応が帰ってくることが多い。知名度は決して低くない。

しかし、「逗子」という漢字表記にはひっかかる。そもそも「逗」を「ず」と読まない。普通、用いられるのは「逗留」の「とう」。地名の「逗子」以外に、「ず」という読み方をする言葉がない。

明治に入って陸軍参謀本部が簡易的に作成した「迅速測図」を、グーグルマップで見ることができる。それを見ると、現在「逗子市」で統合された小坪、久木、桜山、沼間、山の根、池子は、すべて独立した「村」だったことがわかる。

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いくつもの村の中の一つの「村」に過ぎなかった「逗子」が、明治以降、「町名・市名」として使われるようになったのはなぜか。やはり逗子村が周囲の村に比べて「中心的」だったからだろう。

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逗子村の中心を拡大して「迅速測図」を改めて見ると、他の村に比べて家々が密集している。

現在の駅前交差点(魚佐次・横浜銀行・マクドナルドがある)から亀岡八幡、現市役所、新逗子方面へ伸びる道と現・銀座通り。市役所の脇から郵便局のある交差点を超えて海岸まで一直線の道。郵便局から銀座通りにぶつかって現・池田通りへとカーブする道。これらの道に沿って集落ができている。

この道の形状が現在と全く変わらないのが興味深い。この地図に書かれている道はすべて残っていて、歩くことができる。

「逗子」を代表名として用いたのは、周囲の村より栄えていたため。もしくは現在も商店街や役所(市役所・郵便局など)があることからわかるように、当時も役場や商家があったためかもしれないというのは地図から推測できた。

しかし、「逗子」がどうして「逗子」という名前なのかはまだわからない。そんなことを思っていたある日。最後の鎌倉文士で、短編の名手の作家・永井龍男が散歩した道を追体験しようと、鎌倉・雪の下の大御堂橋から報国寺へ向かう滑川沿いの裏道を歩いていた。すると、こんな案内標識を見つけた。

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この道は、鎌倉時代、「田楽辻子(でんがくずし)のみち」と呼ばれていたと言う。

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「辻」は「十字路」のこと。「辻子」にもその意味があるが、平安末期から鎌倉時代において、裏道・路地の意味で用いられるようになった。街道には面していない「裏街」に伸びる道。そこに借家人が住む貧しい民の住む街が形成されていった。その間をくねくね伸びるラビリンスが「辻子」だった。

「田楽師」は遊芸の民。賤しい民とされてきた人たちだ。そんな人たちが暮らしていた道である浄明寺の辺りは、政府や寺社のある「表鎌倉」に対し、中世における「裏鎌倉」だったのだ。そこから近い「逗子」が、やはり「裏鎌倉」としての役割を担わされ、「辻子」と呼ばれたのではないかという気がしてきた。

はたして「逗子」の起源は「辻子」なのか。調べるためにググってみると、逗子市立図書館の職員が、所蔵の史料を用いて調べてまとめたPDFを見つけた。

http://www.library.city.zushi.kanagawa.jp/images/upload/tantei007.pdf

ここでは4つの説が挙げられている。

① 「三浦厨子城」より厨子。
② 延命寺の地蔵尊(伝行基作)を安置する厨子から(『新編相模国風土記稿』他)。
③ 天正年間(1573-92)、荘園に属する豆師(豆を盛る木製の祭器を作る職人)・図師(田図、検地帳を作成し、検地に立ち会った役人)が住んでいたことから(『大日本地名辞書』他)。
④ 道が交差し、人が集まる交通の要衝、「辻子(ず し)」のこと(『日本地名ルーツ辞典』)。

やはり「辻子(ずし)」説も入っていた。

京急新逗子駅前にある延命寺の入口には、「逗子の地名発祥の寺」という石塔が建っているから、地蔵を安置する「厨子」説が通説なのだろうが、私はどうもそれは後づけのように思えてならない。

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「田楽の辻子道」から山道に入る巡礼道がある。「平成の巡礼道」と呼ばれ、眺望のよい衣張山を越えて逗子へ抜けられるハイキングコースだ。

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切通しを抜け、山を越えてすぐの「逗子」の地であれば、首都であり政府である鎌倉の「裏仕事」を担わせるには最適の土地だ。

中世において、沼地で砂地だった逗子は、人が住むのに、また農作物を作るのに適した場所ではなかった。葉山へ抜けるトンネルのすぐ手前に「六代御前の墓(注:平清盛の曽孫)」があり、目の前の田越川が処刑場だったと言われている。そんな土地には、鎌倉に入ることを許されない武士たちや賎民たちが集まったに違いない。

 

私の家のすぐ脇に、「まんだら堂」と呼ばれるところがある。鎌倉と逗子を隔てる山の上にある、やぐらと呼ばれる墓所と祠の跡だ。今は、公園として整備されたため、名越の切通しを抜け、森の木々や花々を愛でながら展望のよい景色を眺められる観光スポットとなった。

しかし、鎌倉時代には遊女や疫病人、旅の行倒れなどが葬られた場所で、その周囲に彼らが住まう小屋が集まったとも言われている。

現在「逗子」の中心地である地域は、「中世」には田楽師や遊女を始めとする芸人たちが集まって「裏街」ができたところ。しかし、なんとなく隠微で、病的な巣窟ではなく、芸能の中心地として盛り上がった街だったような気がしてならない。鎌倉の有力武士たちも、一山越えて遊びに訪れる遊興場として栄えたのではないだろうか。

古東海道ルートにも重なり、海伝いに西国の文化がやってきた「要衝地」としての「辻子」。多様な人たちが集まる「交差点」としての「辻子」だったのではないか。

流れ者がたどりつき、処刑場としての歴史の「暗い裏舞台」を背負い、流れ者、犯罪者、病人がたどりつきながらも、遊女や芸人のたまり場ゆえに芽生えた「アングラサブカル」の聖地であったかもしれない中世の「辻子」。しかし、江戸時代になり、鎌倉が「過去」の街となり、さびれるとともに、「辻子」に人が集まることはなくなり、普通の農村へと姿を変えていったのだろう。過去の「黒」歴史に禊をすべく、さりげなく「辻子」を「逗子」へと書きかえた。「辻」子と「厨」子とを融合して「逗」子という他に例を見ない当て字で読ませたのだ。それが明治になり、軍人や政治家・実業家たちの別荘地として位置づけられ、風光明媚なリゾート地として再び脚光を浴びる街となった。

これがおっちゃんの「妄想」に基づく「辻子から逗子への歴史」である。

ここも「辻子」。

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そこも「辻子」。

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たぶん「辻子」。

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きっと「辻子」。

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街中のメインストリート自体が「中世」をそのまま残している。その周囲にいまだ「中世」の痕跡が残っていて、発見できる。

「辻子」という字が消えても、街中はどこもかしこも「辻子」だらけ。くねくねとうねる細道が相変わらず錯綜するラビリンスなのだ。

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「辻子」探究は始まった。とりあえず「辻子分布マップ」をつくることにしよう。

あなたの一番気になる「辻子」はどこですか?

啼く声の曲りくねりて届きたり 端求