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思考も歩行も飛び石に(6)

偶をジェネレートし知遊する作法

地名としての「市川」を探る

再び、太秦市川を歩くときが来るまでに「点」を増やしておく。そのためにまずは「雑」項目に入る知識を集める。

集めるとは言っても、例によって、まずは「なんとなく感じる」ことから始める。

市川神社に出会った当初、秦氏の本拠地の主要な位置に建てられていただけに「市川氏」という一族がいたのではないかという可能性が真っ先に頭に浮かんだ。しかし、ここまで太秦と市川の関係について調べた範囲では「市川」は村の名前で、一族の名前ではなさそうだ。

そこで、「市川」と地名がつけられたところの「似」ているところはどこか探ることから始めてみようと思う。

地名の「市川」の代表は、千葉県の「市川」である。なぜ「市川」と呼ばれるようになったのか。

市川市立図書館のウェブの中に地名由来をまとめたページがある。その情報によると

・今のように利根川が太平洋に流れこむように治水されていなかったので、当時の江戸川は板東一の川だった。そのため「一の川」と呼ばれていて、それが「市川」になった。

・川船に荷を積んで集まった人によって開かれた市場があったので、川沿いの市場で「市川」になった。

の二つがよく言われる説だが、他にも説があり、決定的なものはない。

古代から「市川」という地名はあったらしいが、公式の記録に登場するのは南北朝時代で「市河村」と呼ばれていた。室町・戦国期には、渡し場と宿場があったと言う。江戸時代には「市川村」と呼ばれ、明治22年、国府台、市川新田、真間、平田の各村と合併。市川町が誕生した。

「市川」と呼ばれる土地の「時代」による痕跡を追ってみる。

市川市のウェブページに紹介されていた「考古博物館」のサイトに行くと、縄文時代の市川の痕跡を残す貝塚は、なんと市内に約50カ所あることがわかった。これは千葉県の約1/10、全国の1/30を占めている。中でも、堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚の三つは国指定の史跡に指定されている。

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続いて古墳。江戸川に沿って、弘法寺古墳、法皇塚古墳、明戸古墳がある。弘法寺古墳は、呼び名からわかるように寺院の中にある。市川を代表する名刹で、天平時代に行基が開基したお寺の中にある。また法皇塚古墳は、現在、東京医科歯科大学のキャンパス内にある。明戸古墳は、太田道灌が築城したと言われている国府台城の跡にある。すべて前方後円墳である。

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こうして地図に貝塚の場所と古墳の場所を並べてみると、貝塚が内陸部で見つかっており、古墳は江戸川沿いにあるという特徴がはっきり見てとれる。

奈良時代に律令制度による中央集権国家が成立して、市川には、下総国の国府が置かれた。現在も「国府台」という地名が残っている。また、国分寺、国分尼寺も置かれ、政治・文化の中心となった。

 

古墳の作られた場所と国府・国分寺が同じ地域に作られたことが下の地図を見るとわかるだろう。

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市川の真間には手児奈伝説があり、山部赤人など著名な万葉歌人にも歌われた。その伝説は、手児奈という美しい娘を巡り、わが妻になってくれと迫る男どうしの争いが絶えなかった。誰か一人の願いを聞き入れれば他の人を苦しめることになると思った手児奈は、海に身を投げ自ら命を絶ったというものだった。

先ほど弘法寺は行基が開基したと書いたが、行基は手児奈を供養するためにこの寺を建てたと言われている。

奈良、平安期のみならず真間の手児奈は 人々の間で語り継がれ、江戸時代に入っては紅葉の名所として多くの人たちが訪れるようになった。下の絵は、歌川広重によって描かれた「名所江戸百景」である。中央の紅葉の下に描かれた橋が、古来、和歌に詠まれてきた継橋。手前の鳥居と社は手児奈を祀る神社。奥に広がる弘法寺の森。その先に見える山は筑波山である。

 

足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ 万葉集・読み人知らず(東歌)

わすられぬ ままの継橋 思ひねに かよひしかたは 夢にみえつつ 藤原定家

かち人の 渡ればゆるぐ 葛飾の ままの継橋 朽ちやしぬらん 源実朝   

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また、市川駅よりも商業地域としては栄えている本八幡(もとやわた)駅の近くには、駅名の元となった葛飾八幡宮がある。9世紀末に創建され、平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康といった人たちの尊信を集めた。

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武士の時代以降、国府台は利根川から江戸方面を見渡す崖の上に位置したため、城が作られたり、合戦の舞台になったりした。特に知られるのが、足利・里見連合軍と北条氏が争う「国府台合戦」であった。

戦国の山城は、急峻な崖上に作られることが多く、見晴らしのよいところだった。下の絵は、歌川広重の「名所江戸百景」に描かれた国府台城址からの眺めである。ここからは富士が見えた。

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江戸時代に入ると、舟運と陸路をつなぐ場としての役割が一層高まり、市川の渡しや関所が置かれ、交通の要所となった。

市川の渡は、江戸時代後期に斎藤月岑(げっしん)によって作られた「江戸名所図絵」で取り上げられている。

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明治に入ると、陸軍関連の施設が続々と建設され軍都となった。しかし、当初は、東京大学と並ぶ大学を建設する予定だった。東大が外国から学ぶための専門分化した学校であるのに対して、まず小中学校をつくり、その卒業生をさらに教育するための「真ノ大学校」という位置づけだったらしい。西南戦争勃発により予算が逼迫したことや、都心から遠いことなどがネックとなって計画は頓挫。どのような教育内容にしたかったのかどうかははっきりしていない。

 

下の図は明治中期頃に作成された地図で、見事に陸軍都市に変貌したことがわかる。また、江戸川に橋はかけられておらず、渡し船が健在だった。鉄道は開通していたが、1890年に完成した江戸川と利根川を結ぶ運河によって市川と銚子の間を結ぶ水運ルートの利便向上が図られた。しかし、やがて鉄道や車の輸送に取って代わられた。

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上の地図を「地形」の面で眺めなおすしたのが下の地図だ。

 

手児奈を祀る弘法寺のあたりは、かつての入江がそのまま湿地帯として残った場所だったことがわかる。

また、現在の千葉街道は、ちょうど「市川砂州」と呼ばれる砂州に沿って走っている。近世には、「上総道」「木更津道」「房州道」などと呼ばれ、参勤交代に利用され、房総の湊を結ぶ主要道として利用された。地図に書かれた「三本松」は砂州に生えていた松林の名残である。

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明治期に果たせなかった文教都市構想は、奇しくも戦後実現され、千葉商科大学、東京医科歯科大学、和洋女子大学といった大学や国立国府台病院のような研究機関が陸軍施設跡地につくられた。

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こうして、市役所、図書館、教育委員会、地元自治会、江戸の図絵、古今の地図などのウェブページをあちこち漂いながら情報を集め、また集まった情報を「知」図に表してゆく作業を通じて、「市川」という「土地」の概略が、地形的にも歴史的にも、体の中にたまってゆく。

こうなるとあとは、現地を訪れて「あるく」のみ。知った情報を確認するのではない。現地を歩いて得られる「生の感覚」や「土地に埋め込まれている情報」と出遭うことで、どんな発見やひらめきが生まれるかを楽しむ。

尊敬する荷風先生が晩年を過ごした街。魅せられた街。そんなことも頭に入れながら「日和下駄」と参ろうか。