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続・「逗子」の名は……

図書館展示の資料を探る

逗子の地名の謎を自分なりに解いた拙稿をまとめた翌日。朝刊にはさまれていた逗子市の広報誌を見て驚いた。逗子市立図書館の紹介記事とともに、逗子の地名由来についてググった時に見つけた資料の文章がそのまま載っていたからだ。

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おおなんたるフォース。なんたる偶然。

自分の興味に従って飛び石伝いに調べているだけなのにしょっちゅうこういうことに出くわす。だから止められない。止めないで性懲りもなく続けるからますますフォースが強まり、偶然をつかむ確率が高まる。そうとしか思えない。

今朝、朝一番で逗子市立図書館へ。「逗子の地名」に関する資料を集めた特別コーナーができていることを広報で知ったから、早速、行くことにした。

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おおこれか。面白そうな資料ばかりではないか。

パネルに展示されている「地図」をまず写真におさめる。次に、資料の中で、逗子の地名由来について書かれている箇所を読むことにする。

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川柳の同人誌に地名のことが書かれている。著者は、川柳詩人。歴史家ではないようだ。司書の方が付箋を入れてくれているので開いてみる。それはググって知った内容が要約される前の文章だった。

やはり、逗子地名発祥の石碑が建っている延命寺の「厨子」説が「通説」だと言う。ただ、私は、行基の作った仏像をおさめる「厨子」を弘法大師が立ち寄って作ったという逸話自体にあまり心ひかれない。全国各地で見られる根拠の乏しい行基・弘法大師伝説の一つのように思えてならないからだ。第一、仏像を収める素晴らしい「厨子」ならば、各地のお寺にあるだろうが、それゆえに「厨子」という地名になったということを聞いたことがない。

次に、古文書に残る「ずし」の記録。「厨子」説については「三浦厨子城」という名の城があったからとも言われているそうだ。この名称は、後北条氏の文書の中に書かれているらしい。ただし、いつ頃、どこにその城があったか不明。痕跡も見当たらないと言う。

後北条氏の残した別の文書では、秀吉の小田原城攻撃ならびに東国への侵攻に備える旨を、鎌倉・逗子・葉山に住む領民に知らせている書状において「豆師」「豆子」というふうに記されている。また、江戸時代に入って、徳川家康が延命寺に寄進した書状の中では「豆子」と書かれている。こうなってしまったのは、村名の「読み」に合わせた当て字のためではないかと筆者は推測している。

そもそも中世・近世において、現在の市域全体を指す名称として「逗子」が使われたことはない。現在の鎌倉・逗子・葉山一帯は、「浜名郷」と呼ばれ、支配者の屋敷があったのは今の沼間(JR東逗子駅周辺)の辺りだそうだ。となると、二つの街道が交わった交差点である「辻子」に集落が発展したから「辻子」という説が浮上する。もちろん「辻子」説についても書かれていた。

もう一冊。逗子の郷土史について書かれた小冊子から「逗子の地名」の由来を探ることができた。

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こちらも出典は同じものを参照しているようで、書かれている内容はあまり変わらない。

ただ、面白かったのは、地名研究の権威であった松尾俊郎博士の『日本の地名』という本からの引用。「ずし」という地名は、京都・奈良・兵庫で見られる(例・京都市山科区厨子、高槻市辻子、西宮市図子など)し、東京では町田市に「図師町」がある。ただし、これらの「ずし」は「横道」という意味や、「図師」という役職を持った人が集まったところという意味での「ずし」と見られる。「逗子」だけが、海からの道と陸の道が、そして、東西の街道と南北の街道がぶつかる「中心地・要衝地」としての「辻子」を意味しているというのだ。

海路で来た人々が三浦半島を横断し、横須賀方面へ向かうという、まさにヤマトタケルの進んだルートと、鎌倉から名越を越えて、海岸まわりで葉山、そして浦賀へ抜けるルートの交わる「交差点=辻子」。そこに他の町・集落とは異なる独特の文化が形成されたからこそ、あえての「辻子」だという説がどうも有力だと思えてならない(のは私の偏見だが……)。

昔の貴重な写真類もいろいろ見つけた。中でもあっ!と思ったのは、トンネルができる前の田越橋の写真。橋の反対側に家が建っている。葉山の御用邸に直行するため、現在、田越橋から葉山・長柄に抜けるトンネルができたのであって、それ以前は直進する道はなかった。

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さらに、その背後は、まさに今、村や、原っぱ大学のある山だが、とても低く見える。やはり明治初期には、萱原や畑で、今のように森ではなかったことがわかる。先日、長年、桜山に住む石渡家の子孫であるちかおさんにお目にかかったが、その時に語られた通り。さらには「迅速測図」で表されていた通りの光景だ。

 

写真の左端に製材所があるが、ここにちかおさんは山で切った木を持ち込んだとおっしゃっていた。

向きを変えて田越川とともに橋を撮影した写真もあった。葦原が広がり、水量は豊か。やはり山は低い。この光景こそ、国木田独歩、徳富蘆花が描いた逗子の風景だ。

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「御最後川(注:田越川の別名)の岸辺に茂る葦の枯れて、吹く潮風に騒ぐ……(中略)……もし旅人、疲れし足をこのほとりに停めしとき、何心なく見廻わして、何らの感もなく行過ぎうべきか。見かえればかしこなるは哀れを今も、七百年の後にひく六代御前の杜なり。木がらしその梢に鳴りつ。落葉を浮かべて、ゆるやかに流るるこの沼川を、漕ぎ上る舟、知らずいずれの時か心地よき追分の節おもしろくこの舟より響きわたりて霜夜の前ぶれをか為しつる。あらず、あらず、ただ見るいつもいつも、物いわぬ、笑わざる、歌わざる漢子(おのこ)の、農夫とも漁人とも見分けがたきが淋しげに櫓(ろ)あやつるのみ。鍬かたげし農夫の影の、橋とともに朧ろにこれに映つる、かの舟、音もなくこれを掻き乱しゆく、見る間に、舟は葦がくれ去るなり」(国木田独歩『たき火』)

最後に、パネルに掲示されていた地図や、資料を読んで見つけた地図をまとめておこう。

 

これからのフィールドウォークやファンタジーワークに基礎資料だ。

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「辻子探究」は続く。第3章へ!