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思考も歩行も飛び石に(5)

偶をジェネレートし知遊する作法

「偶」のストックとしての「雑」

実際に歩いて、あるいは、頭のなかで思考を歩かせて遭「遇」したものがすべて「偶」としてつながるわけではない。

遭「遇」してもそのままというものがたくさんある。そう言ったものは関係ないから切り捨てて、関係ありそうなものだけを選ぼうとすると、情報を虎視眈々と探し求めて歩くことになってしまう。そうするとあらかじめ欲しいと思っていた情報しかとることができない。思いがけない僥倖を得る確率は減るだろう。

 

なんとなく気になったことは、とりあえずなんでも捨てずにとっておく。「偶」にはならないが、将来、どこかで「偶」になるかもしれないモノ・コトとして集める。ずっと「偶」にならないままになってしまうかもしれないがいっこうに構わない。こうして集まったモノ・コトは「雑」として記録しておけばよいのだ。

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話を「市川神社」と出会った Feel℃ Walk に戻そう。

「太秦市川村」を検索ワードとしてググった結果、おねねの創建した高台寺の所領だということが明らかになった。これはさらに深めたい「偶」だ。

この他にあともう一件だけヒットした項目があった。

車僧影堂(くるまそうえいどう)

だ。

鎌倉時代に、臨済宗の僧・深山正虎(しんざんしょうこ)は、太秦市川村に海正寺を創建したと伝えられている。今は寺はなく、その跡地に御堂だけが残されている。

江戸時代、1711年に書かれた『山城名勝志』には「車僧寺」の記述があり、1780年に書かれた『都名所図会』には「車僧の塚」という記述があるそうだ。

深山正虎が「車僧」と呼ばれたのは、壊れた車で街道を往来していたからだと言う。また、七百前のことをよく話したため「七百歳」とも呼ばれていたらしい。

現在、御堂の中には「深山正虎木像坐像」が安置されている。手に払子(ほっす)と数珠を持ち、椅子に坐っている木像で、室町時代初期の作とみられている。

現在御堂を管理しているのは、「市川・瀬田農協」の人だそうだ。太秦の現住所に残されていない「市川」が農協の名前にはまだ残されているとは「雑」というより「偶」か。ここにアクセスすると何か面白い情報を得られるかもしれないから覚えておこう。

深山正虎は「車僧」という謡曲として作品化されているということも知ったが、この情報は直接的に「市川探究」につながりそうにないので「偶」というより「雑」だろう。

どんなストーリーの謡曲かと言うと、一人の山伏が車僧(深山正虎)に様々な難題をふっかけてきたが、それを車僧がことごとくあしらったので、山伏は自らを愛宕山の太郎坊だと名乗り、黒雲に乗って一旦去った。しかし、山伏は天狗の姿になって再び車僧のもとに現れ対決を申し込む。すると、車僧は払子を一振りして車を自在に動かしてみせたので、それを見た天狗は車僧の法力に驚いて退散したというものだ。

市川神社を訪れる前に立ち寄った猿田彦神社は「天狗」に関わるはず。そこで「雑」の知識として山之内猿田彦神社について調べる。

平安期に最澄が座禅するための霊窟を探し求めているところ猿田彦と出会い、この地に猿田彦大神を祀ったとも、嵯峨天皇の行幸の際に猿田彦が道案内を務めたことから、天皇の勅命によって社殿が建立されたとも伝えられている。かつて境内には山伏修験者の行場があったとされ、愛宕詣りする人々は滝に打たれて身を清めてから参詣したと言う。

愛宕山、天狗とのつながりが「雑」として入ってくると、

そこから、私の父の故郷でもあり、市川家のある群馬県の西部、松井田のことを思い出した。

松井田は妙義山を望む麓の町である。

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妙義山の中腹にある妙義神社の社殿の裏側には天狗が祀られている。市川家にも大きな天狗の面が飾られていた。

とはいえ、天狗と市川とをこの段階で無理につなげる必要もない。

川喜田二郎が『発想法』の中で書いているように、すべてのデータを分類する必要はなく、どうしてもまとめられないものは「離れざる」としてそのままにしておけばよい。

ということで、猿田彦、愛宕、天狗、妙義は「雑」としておく。

歩きながら集めるということは、何かを見つけようと虎視眈々とすることではない。なんとなく気になるモノ・コトはとりあえず集めておく。集まるままに集める。「偶」として集めた点どうしがつながり、新たな意味を持つことが Connecting Dots である。しかし、点がつながる前に、「偶」を呼び覚ます「雑」となる点が集まっていることが大事なのだ。ひたすら点を集める Collecting Dotsがあってこその Connecting Dots なのだ。そして、新たな意味に気づいたら、それを誰かに語ってみる。すると言われた相手からの思わぬ発見が返ってくる。Communicating Dots によってさらに意味が豊かに深くなってゆくのである。

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「偶」は一日にしてならず。「偶」のストックとしての「雑」の厚みが、思いがけない「偶」をジェネレートするのである。