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キヨの墓

漱石 Feel°C Walk (その2)

住民票文京区民の私、朝一で期日前投票を済ませた後、昼過ぎからの打ち合わせの前に、軽く歩く。

「死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある」

夏目漱石『坊っちゃん』の最後の一文に出てくる小日向(本駒込)の養源寺に行ってみる。すると

キヨの墓(米山家)

という標識がある。キヨは実在の人物ではないはず……どういうことか?

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実は、きよの墓とされているお墓に眠る米山保三郎は漱石の親友。抜群の秀才で特に哲学・数学にすば抜けていた。

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(左・漱石 右・米山)

建築家になろうとしていた漱石に、

「日本ではどんなに腕をふるっても、(ロンドンの)セント・ポールズ大寺院のような建物を後世に残すことはできない。それよりも、まだ文学の方が生命がある」

と語り、英文学への進路変更のきっかけを作った。いわば文学者漱石の生みの親だ。『吾輩は猫である』の登場人物の一人、天然居士は保三郎をモデルにしたらしい。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁(はな)を垂らす人である」

というユーモラスな表現から読み取れるのは、漱石がいかに保三郎のスケールの大きな才能にほれていたかだろう。

漱石のみならず誰もが保三郎の将来を大いに期待していたのだが29歳で病没してしまった。

では、なぜ保三郎の墓が清の墓なのか。それは、保三郎の祖母の名前が清だったのだ。なんと心から尊敬し、信頼していた親友の祖母を坊っちゃんに登場させたのであった。

神経質で繊細な坊っちゃん・漱石を、どこまでも許容し、励ますきよの懐の深さは、保三郎の祖母の名を借りただけで、保三郎の姿そのものだったのかもしれない。

こう考えると、

「お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っております」

という最後の一文の意味もまた異なって見えてくる。

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ぬかるみを避けて進めば清の墓 端求

歩いて読み、詠み、時空を超えるのはやめられない。

(補足)上に載せた漱石と米山の写真の裏に、漱石は、「空間を研究せる天然居士の肖像に題す」として、こんな句を書きつけていた。


空に消ゆる鐸(たく)の響や春の塔

意味は、漱石自身が、「寂寞たる孤塔の高き上にて風鈴が独り鳴るに、その音は仰ぐ間もなく空裏に消えて春淋しという意味」と説明している。どこまでも才能高き、見上げるごとき素晴らしき友が、風鈴の音のごとくあっけなく空へ消えてしまったという痛切な漱石の思いだろう。