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思考も歩行も飛び石に(9)

偶をジェネレートし知遊する作法

友がもたらす「遇」

日々調べ、思いついたことを記録し、発信していると、友から返信がある。自分が動き回って得る「遇」だけでなく、自分以外の人がわざわざ届けてくれる「遇」がある。

「いち」は「斎きまつる」に語源があることを書いたところ、いつもともに歩き、たんけんしている友が

斎宮(いつきのみや=さいぐう)

について教えてくれた。私は初めて「斎宮」について知ったが、「斎宮」とは、「斎王」の宮殿のあったところ。「斎王」とは、即位した天皇に代わって伊勢神宮に仕えるために選ばれた皇女のことである。「斎王」に選ばれると、宮中内の初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都の郊外の野宮(ののみや)に移り潔斎の日々を送り身を清めた。さらにその翌年9月、いよいよ伊勢神宮の神嘗祭(かんなめのまつり)に合わせて都を旅立つ。出発日の朝、斎王は葛野川(現在の桂川)で禊(みそぎ)を行い、五泊六日かけて伊勢へ向かった。斎王は、天皇が退位または崩御するか、斎王自身が病に倒れるかしない限り、任を解かれることはなかったそうだ。

「斎宮」に関連する場所があるかどうか探るためにググってみると、2000年に京都西京高校の敷地から「斎宮」と墨書された土器が発見され、斎王に関連する大邸宅があったことがわかった。場所的に初斎院でも野宮でもないので新たに斎王が滞在した場所が京中に見つかったのだ。

地図で場所を確認してみると、位置的にもしかして……

ピンとくるものがあって「知」図を作ってみると、なんと斎宮邸跡から真西に市川神社がある。

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「いち」とは「斎」を表している。「川」の水で禊を行い「斎」きまつる。それが「いちかわ」であることが濃厚になってきた。

 

御所と斎宮邸跡、市川神社、野宮(斎宮旧趾)を地図上で確認してみると、斎宮邸跡と斎宮旧趾(野宮)のほぼ中間点に市川神社がある。斎王は、伊勢とは反対の方向に「方違え」し、禊を行って旅立って行ったのだ。

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友は、斎宮が直接、市川につながると考えて情報をくれたわけではない。なんとなくこれはと感じた知識をシェアしてくれたのだ。そうした「直感」に素直に乗っかってみると、「雑」というより「偶」に近い知識を得てしまうことになるから飛び石たんけんはやめられない。

私は、ふと千葉市川の手児奈伝説を思い出した。手児奈は言い寄る男達の中で一人を選ぶわけにはいかないと思い入水して果てたことになっている。しかし「斎王」のように神への捧げものとされる女性の一人が手児奈だったのではないか。「斎王」を頂点として、神を鎮めるために人身御供となった姫がいたことが想像される。特に、千葉市川の利根川流域も、太秦市川の桂川流域も洪水の被害を受ける地域で、治水工事とともに水の神に祈りを捧げる神事が行われたはずだ。

「川」で身を清める「斎(いち)」と「川」に祈りと生贄を捧げる「斎(いち)」。

この二つが共に行われていた場所が「市川神社」のある辺りだったのではないか。それゆえに、菅原道真が編纂した「日本三代実録」にも記録が残る格式のある古社となったのだろう。

 

白川静先生の「字訓」によると、「市」の語源を「斎女(いつきめ)」と考えたのは柳田国男だと言う。やはり手児奈は「斎女」だったのだろう。

では、「斎(いち)」を行う場に、なぜ人々が集まり、歌垣を行ったり、物をやりとりする「市」が生まれたのか。さらにそれはなぜ「国府」の近くだったのか。

友はもう一つ情報を教えてくれた。歴史学者の網野善彦さんが「無縁・公界・楽」という本で「市」について書いていたと言う。

仕事で銀座に行ったついでに入った本屋でその本を見つけてしまった。

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帰りの電車の中で早速読み始めると、

「死者の世界との境界、神々と関わる聖域、交易・芸能の広場、自治的な平和領域、王権との関係」

といったことが「市」に関わってくると書いてあった。こうした「市」は、

「律令国家成立後の天皇の都における東西の市、しばしば『市川』などの地名に残る国衙の国市において、最も組織化された形で現われる」

なんと!市川は国衙、つまり国府のあるところで組織立って現れたと網野先生は書いているではないか。

斎宮の禊は、都における最高の「いつき」であり、儀式に関わる人々、必要な物資、供物、さらには警護の役人たちと、必然的に多くの人々や物が集まったはず。穢れに一番近い場所に、最高級の物や人が集まるという二面性。生贄を捧げ、死を弔うことに伴う「穢れ」は、神の加護を賜り、新たな命を再生する「神聖さ」と表裏一体なのだ。

宮中や国庁のような政務の場所、生活の場所、そして普段参詣する神社とは異なり、結界を超えた、不浄の土地は、どこにも属さない空間。それが「市」なのだ。

ここから、例によって妄想モードにスイッチが入った。実質的に禊の儀式を取り行ったり、その場を司る神を祀ったりした場所が市川神社の辺り。そこに隣接した「空間」に聖俗貴賎入り混じる「市」が非公式に生まれた。そこは猥雑でありながら、決して不穏ではない、不思議な秩序によって統制された場所だった。都や国府に集まる豊かな物資のおこぼれが「市」に出されたので活気に満ちていただろうし、「斎」のために集まった職能人や芸能人は、その場で技を披露し、自然に宴が生じたであろう。そこでは卑しき民も貴き人も、普段の身分や実名を明らかにすることなく交わり、興じたのではないか。

中世以前の「市川」の姿が目に浮かぶではないか。

「鎌倉の前浜、小袋・化粧・名越等々の切通しは、遊女が住み、町屋の並ぶ市であるとともに、刑場であり、「やぐら」の集中する葬送の場でもあった」

私、市川が今、この文章を書いている場所こそ、ここに網野先生が書かれた「市」と「刑場」「やぐら」のあった「まんだら堂」のすぐ隣なのである。私、「市川」は中世の「市」のあった場所に住み、「市」と中世以前の「市川」について考えていたのだった。

とてつもない「偶」が舞い降りてきた。

「斎」と接して生じた古代の「市」の姿について、網野さんの本などを参考にしてさらに追って行くことにしよう。