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思考も歩行も飛び石に(2)

偶をジェネレートし「知遊」する作法

猿田彦神社との「遇」

右京中央図書館を出るとすぐそばを天神川が流れている。深く掘りこまれ、コンクリートで固められているので風情はまるでない。氾濫しやすい都市河川ならではの形である。その川沿いに猿田彦神社はあった。まだ数分も歩いていない。

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先週、ふと思い立ち、七福神巡りならぬ七木七転巡りと称して、「気」になる「木」を七種類見つけるために神社を巡るという遊びをしたばかり。やはり「木」が「気」になる。が、「気」にするよりもなによりも、本殿すぐ脇にあるご神木は圧巻で、「気」にしないわけにはいかない。「区民誇りの木」という札がかけられている、樹齢七百年と言われるクスノキだ。

猿田彦は道開き=導きの神と言われている。これから市川神社へどう導かれてゆくのか楽しみだ。

天神川もさほど大きくはないが、それよりもさらに小さい西高瀬川沿いの道を歩き始める。高瀬川というからには用水路として人工に造られた川であろう。調べてみると、確かに市内へと続く運河として造られた川であった。時代は「本家」高瀬川とは大きく異なり、幕末(1863年)から明治初期にかけて開削された。嵐山渡月橋付近から桂川の水を引き込み、市内を通り、伏見付近で鴨川へと流れ出る。ただし今は、猿田彦神社のすぐ脇で天神川に合流するように改修工事が行われたため、そこから先へは水はほとんど流れてゆかないそうだ。

西高瀬川沿いのさほど車の通らない道を進む。鉄工所のような町工場、クリーニングや居酒屋などの店舗がぽつりぽつりとあるが、一戸建ての住宅と昔ながらの低層アパートが並ぶ住宅街と言えるだろう。田畑はない。

やがて道路の南側に大きな工場と団地が現れ、南北に走る交通量の多い道に突き当たってしまった。図書館でもらった地図によれば、突き当たらずに直進できて、この道を渡ったらすぐ市川神社があるはずだ。しかし、それらしきところは見当たらない。たとえ住宅地の中でも、こんもりした緑が見えればそこが神社だとすぐわかるので、比較的見つけやすいはずなのにおかしい。どうも

道を間違えたようだ。とりあえずこれより西に行くことはないだろうと判断をつけ、南北に走る幹線道路をまずは南に行くことにした。しかし、しばらく南に歩いてもいっこうに市川神社は出てこない。これは違うなと引き返し、通りがかりにあったローソンに入った。何のために?道路地図を立ち読みするためである。

ちょっと待ってくださいよ。スマホでグーグルマップを見ればいいじゃないですか。

と言われそうだが、いまだに私はスマホを持っていない。なので迷いながらなんとかするしかないのだ。

道路地図を見てまず今いる場所を確かめる。ローソンの目の前にあるバス停は「南太秦」だ。とすると……ここだな。今いる場所がわかった。続いて「市川神社」を地図で見つければいいのだが、地図には何も書かれていない。鳥居のマークすらない。しかし、図書館でもらった地図で描かれた道路の形と同じ形の部分を見つけた。ということは地図には記載されていないが、そこに行けばきっと神社はあるだろう。ここから北上すればいいだけだ。さっき南に行かずに北に向かえばすぐに出遭ったということか。しかし、こうしてあたりをうろうろしてみるのも悪くない。これぞ「遊歩」であり「散歩」である。

ところが、おそらくここであろうと思う場所に近づいてもいっこうに神社らしいものは見えてこない。神社の名前を記した看板や案内標示が出てきてもよさそうなのにそれすらない。

すると……

店舗付きアパートと駐車場との間の狭い路地の先に空き地が見えた。そこには小さな木造の鳥居と、奥にとても小さな社がある。しかし、神社の名を示す石塔も看板もまったくない。

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まさかここ?

どこにも何も書かれていないので、まだここが市川神社かどうかまったくわからない。中に入って確かめるしかあるまいと思い、鳥居を抜け空き地に入る。敷石もなければ、手洗い場もない。殺風景ではあるが雑草は刈られていて、人の手によってしっかり管理されていることはわかった。

 

神輿か何かが収められているのかと思われる物置小屋の側面に木の札がかかっている。何か書かれているかなと近づくと、

 

市川神社

 

と書かれているではないか。確かにここが市川神社だったのである。

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まずお参りを済ませ、その後、祠の脇の囲いを見るとそこにも市川神社と書いてある。

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改めて板に書かれている由緒を読むと、このあたりは度々桂川が氾濫した場所で、渡来人である秦一族が治水灌漑したと言う。その時に、「水戸=みと=港や河口など水が出入りするところ」の守り神を秦氏が祀って造られたのだそうだ。しかし、この由緒を読んでも、なぜこの神社を「市川」と呼ぶのかについては一切書かれていない。

秦氏、治水灌漑との関わり、さらに目ぼしい情報としては、神社は泥沼の中にあって、洪水の時は水の上に浮かんでいるようだったということ、境内にかつて高さ三十メートルほどの大杉がご神木としてあったが大正時代に雷が落ちて枯れてしまったこと、現在の神社の形は昭和中期になってからのものであることが書かれていたが、それだけ。

ただ、明治以降、国家神道を推し進めるためにつくられ、合祀された後の神社には、必ずある忠魂碑や国威宣揚の日の丸掲揚台のようなものが一切ない。由緒からすれば創建年代は相当古い。土地の神を祀り続け、近代になっても取り込まれず、忘れ去られながらも痕跡を残している。そんなことを考えていたら、さっきまで降っていた雪が消え、太陽が燦々と輝き出したではないか。

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改めて図書館の地図を見ると、この神社は、

太秦市川村の産土神

と書かれている。「市川」は村の名前だったのか。さらに、「産土神」ということは、「氏神・氏子」のような血縁関係ではなく、地縁関係で結ばれた神社だ。

すると、「市川氏」という一族がいたというよりもこの太秦「市川」という土地の守り神。ここで育った人すべてを守るということであろうか。

何かが伝えられているからこそ宅地開発にも消されず、存在し続けている。その由縁がますます知りたくなってきた。

広隆寺との「遇」

そろそろ行かないと打ち合わせに遅刻してしまうので、市川神社を後にする。さっき歩いてきた道をさらに北上すれば嵐電の駅にぶつかるはず。ほどなく「太秦」という信号表示のあるT字路にぶつかった。出遭った道は、二条から嵐山をつなぐ幹線道路。その先には、広隆寺の巨大な山門が見えた。

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市川神社を北上した突き当りが広隆寺。そもそも秦氏が市川神社を祀ったと言われているのだから、秦氏の氏寺である広隆寺とつながるのは当然のことかもしれない。しかし、出遭うとはまったく予想せずに突然出遭ってしまう驚きは、実際にぶらりと歩かないと味わえない。さらに、大昔、秦氏の一族も市川神社に関わる人も歩いた道を自分もふらふら歩いたことで、知識ではなく、実体験として、往時の人たちの思いを共有できたような気になる。こうした追体験が、次なる「引き寄せ」につながる。

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オフシーズンの夕方は、弥勒菩薩があり、境内も美しい広隆寺であってもこれほどに閑散としている。ああじっくり見たいと後ろ髪引かれる思いを断ち切って、山門からちょこっと入っただけで引き返した。

時間切れ・強制移動という「遇」

スキマ時間に訪れただけなのだから、たんけんの時間切れになったらその日はそこまで。だったら十分に時間をとって訪れるか、もっと時間を効率よく使って歩けばいいではないかと思われるかもしれない。しかし、限られた時間でどんなことに出遭うかも「遇」の醍醐味だ。

もちろん明確に仮説や調査する内容が決まっている場合は、計画的に進めて、時間を無駄なく進める方がよいだろう。一方、私は、すぐの成果を求めず、目的や意図を持たず、引き寄せられ、流されてゆくプロセスに身を任せて集まる「遇」で遊びたいのである。だから時間切れならまた来ればよいだけの話。逆に言うと、時間切れで強制移動しないといけない羽目になると、別の「遇」がジェネレートする。途中のひょんなところで思わぬ面白い人に出会ったり、今日の話とつながりそうな場にたまたま出てしまったり、むしろ固まりそうになった頭や思いを自然にほぐしてくれる出遇いが待っているのだ。

市川神社に出遭えただけでもうけもの。こうして「太秦」と「秦氏」と「市川」というカードが三枚そろってしまったのだから、この地域をあと2回はぐるりとしよう。

同じ地域を三度歩く

というTQ Feel℃ Walk の作法に従うのみ。虎視眈眈と獲物を狙うのではなく、ゆったりと、あちこちを巡ると向こうから押し寄せてくるモノやコトがある。それを受けとめるのだ。こうして三度歩いて初めて、これは面白いぞ!というものが見えてくる。そこまで待つ。ボーッと待つのは何もしないように見えるが、無駄に動きまわってアクティブぶっているよりよほど意味がある。待つ間も、感覚や頭はじわじわ作動し続ける。すると考えが知らず知らず「熟成」されて、あるときひょっこり顔を出す。それを待っているし、待ちながら思い立ったらまた歩くのである。

市川神社を皮切りに「市川たんけん」の始まり。これは「逗子こども風土記」づくりの序曲のような気がする。