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八幡さまに導かれて 葛飾風土記(2)

総武線で市川の次の駅は「本八幡(もとやわた)」。八幡さまがありますよと高らかに宣言しているこの駅からすぐのところに葛飾八幡宮がある。いよいよ葛飾における4つ目の八幡に足を踏み入れた。

北口を出てそのまま北上。京成線の線路を超えると右手にすぐ参道がある。線路脇ではあるが、静かな住宅街にたたずむ落ち着いた雰囲気がある。

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鳥居の両側に松が覆いかぶさっている様子が心温かくする。参道を進むと、「随神門」がある。江戸時代は、上野寛永寺の末寺で、当時は「仁王門」だったが、明治の神仏分離令で、仁王は行徳の徳願寺に遷されたそうだ。その代わりに今は、右大臣・左大臣の像がある。

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いよいよ八幡宮の門にさしかかる。額をみると、「八幡宮」の「八」の字が鎌倉・鶴岡八幡宮と同じで、鳩の形を模している。

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由緒では、9世紀末の平安時代、宇多天皇の勅願により京都石清水八幡宮より勧請し、下総国総鎮守八幡宮としてご鎮座したのが始まり。以来、平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康といった人たちに篤く守られてきた。特に頼朝は、この地を治めていた千葉氏に社殿を修復させた。その時に鎌倉鶴岡八幡宮との縁が生まれ、八の字が鳩の形になったのかもしれない。

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社殿は簡素だが、豊かな気を感じる。それもそのはず、上の写真の右端に写る「千本イチョウ」ここそこの地の有り難さを物語っている。

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ご神木である「千本イチョウ」は、国指定天然記念物で、推定樹齢1200年といわれている。その姿は『江戸名所図会』にも記録されているそうだ。この木の不思議さは、ただ幹が太かったり、樹高があったりするのではなく、多くの幹が寄り添って支え合っているところだ。説明書きによると、根元の部分より、幹の集まっているあたりの方が樹の周囲が長いと言う。

ゆったりとした広さを感じさせる境内には、千本イチョウ以外にも、松やクスノキなど立派な木々が生えている。置かれている石碑と石碑のスペースも広く、舗装されていない露地が自然な感じで整えられていて、清々しい。妙に神々しく、厳粛な感じでもなく、だからと言って、荒れたり、商業的だったりするわけでもない。自然という言葉がいちばんしっくりする。

ここはかつて「八幡の藪知らず」と呼ばれ、鬱蒼とした森だったそうだ。往時は、さらに社域が広かったそうで、「藪知らず」、つまり、一度入ったら迷って二度と外に出られないと言われてきた。今では、周囲を大きな道路、鉄道の線路や住宅地が囲み、もはや森はない。現在、お化け屋敷や迷路のことを「藪」と呼ぶのは「八幡の藪知らず」伝説が元だと言う。

深い森と神社

こう聞いて頭に浮かんだのは、太秦の木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)だ。今は、下鴨神社の「糺(ただす)ノ森」が有名だが、元々は木嶋坐天照御魂神社の周囲に広がる深い社叢林こそ「糺ノ森」だった。したがって、今でも木嶋社は「元糺(もとただす)」と呼ばれている。

森があり、清水が湧く場所だった木嶋社のことを思いつつ、葛飾八幡宮の本殿近くにある松の木を眺めていると、右手奥に、朱塗りの鳥居が見えた(下の写真の松の木の向こうに小さく赤い鳥居の上部としめ縄が見えるでしょ!)。

 

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周囲には池が巡らせてあり、太鼓橋もある。そこは厳島神社だった。

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同じ森だったとしても木嶋社は台地の上で泉が湧き出すところ。それに対して、葛飾八幡宮は国府台の台地下にできた砂州の上だ。位置する地形は異なるものの、水辺に作られたということは共通している。

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市川市の地形を調べてみると、葛飾八幡宮が建てられているところは、海の入江であり、また、江戸川の河口でもある湿地帯の間に堆積してできた砂州の上である。上の地図は、市川市史から引用し、そこに気づいたことを書き込んだものだ。

葛飾八幡宮の周囲は葦などが生い茂っていた湿地帯。わずかに高い砂州の上には松林があり、潮の満ちた時や水害時には島のように浮かび上がったであろう。そこで「斎(いつき)」が行われたので、まさに「斎(いつき)の島=厳島」である。

「斎(いつき)の川」としての場所「市川」を支持する痕跡が現れた。 

葛飾八幡を後にして、数百メートルも西に行かないうちに、永井荷風が最晩年、毎日のようにカツ丼を食べに来たという「大黒家」がある。亡くなる前日も食べに来たと言うほど愛する場所だったが、数年前、閉店になってしまった。残念に思っていたが、今は、地元の大手進学塾が引き取り、営業時のままで保存され、貸スペースとして利用できる。

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大黒家の角を曲がり北西に伸びる道は、「荷風の散歩道」と呼ばれる商店街だ。繁華ではなく、荷風が愛しそうな、下町風情の残ったひなびた店が点在する。

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商店街が途絶え、住宅街に入るとすぐに白幡天神が現れた。創建の正確な年はわからないものの、「白幡」からわかるように源頼朝が掲げた「白旗」にちなむ場所と由縁には書かれている。

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きれいに掃き清められた庭に生える木々が美しい。葛飾八幡宮にしろ、白幡天神にしろ、厳かすぎて緊張させることがない。とはいえ、庶民的すぎて、神様商売をしているような安っぽさがない。日常に私たちの気持ちを清め、温かく包んでくれる自然の懐の深さを感じる。

「おい、市川くん、ここは結構いいだろ」

この美しい江戸調のしゃべり方は……

露伴先生が現れた。

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この近くに、戦後、小石川の家を焼け出された幸田露伴先生の終の住処となった家があったのだ。市川での露伴先生の最期は、娘の幸田文さんが書いた『父 その死』という名作に描かれている。

 

荷風先生や露伴先生を始め、文学者や芸術家に愛された市川の土地の地霊(ゲニウス=ロキ)を、今日訪れた二つの神社に強く感じた。

歩いて国府台の台地の方へ向かおうと真間川沿いを歩いていると

府中橋

に出くわした。

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下総国府の中心に位置するのだから「府中」という地名が出てきても驚くことはない。そろそろ国府台の台地の際というサインかなと思った。

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この橋のすぐそばに神社があった。普段なら、よく街中で見かける神社で済んだのだろうが、今日、ここまで見てきた二つの神社のたたずまいがあまりにも美しかったので、あまりのギャップに驚いてしまった。殺風景で、そのまま通過しようと思ったとき、神社の名を示す石標を見て足を止めた。

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景行天皇が造られた「六所宮」だというのだ。

景行天皇によって造られた国府の六所宮と言えば、武蔵府中の大国魂神社と同じではないか。

実は、数日前、武蔵府中のことが気になり、大国魂神社の周囲を歩いたばかりだった。突然の「偶」に、武蔵府中を歩いたときのことが呼びおこされた。

今日は、天気のよい穏やかな日和だったが、週末に武蔵府中を歩いた日は、かなり激しく雨が降りつけていた。

大国魂神社は、江戸時代の図絵には「六所宮」と描かれているし、いまだに本殿の額は「総社六所宮」だ。

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国内に点在する多くの神社を巡回して祭祀しなくても済むように一ヶ所にとりまとめて祀ったのが「総社」である。大国魂神社は武蔵国の「総社」。さらに武蔵国内に点在する著名な六つの神社の神々についての祭祀を行ったので「六所宮」と呼ばれるようになった。

今日、発見した「六所宮」も同じで、下総国総社であり、また、六つの神々について祭祀を取り行ったと案内板には書かれていた。

興味深いのは、武蔵総社の「六社宮」が、武蔵国衙のあった場所の中心に、現在の東京を代表する立派な神社の一つとして祀られ続けているのに対し、下総総社の「六社宮」は、明治になってすぐ、陸軍の施設を作るために、国府台の中心地から台地下に強制移転させられてしまったこと。あっという間に、「総社」が街場のただの神社のひとつとなってしまった。

軍国主義と国家神道は連動していたはずだし、神国思想ということを考えたら、古来からの神域をないがしろにできないはずではないか。仮に、移転するにしても、もっと大事な扱いを受けてもよかっただろう。

改めて武蔵府中・大国魂神社の由縁を調べてみた。すると「六所宮」から「大国魂神社」に公式名称が「戻った」のは1871年(明治4年)のことだったと書かれている。

戻った ? ?

実は、景行天皇が創建した時は、武蔵の国の国魂を祀るという意味で、大国魂神社と呼ばれていた。ご祭神である大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神で、武蔵を開拓し、人々に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法を教えたとされる。

その当時は、「国造(くにのみやつこ)」が支配し、彼らが代々、祭務を取り仕切ったと言う。大化の改新の後、武蔵「国府」が置かれ、大国魂神社は国衙の斎場として「国司」が祭務を取り仕切ることになった。ここから武蔵総社としての「六所宮」の歴史が始まるのだった。

雨の中、府中を歩いているとき、明治になって「大国魂神社」に変えるとは、「大日本帝国の魂」というような意味合いを込めての改称ではないかと推測した。しかし、下総の「六社宮」の扱いを見ると、軍国主義や国家神道からの影響とは言えなさそうだ。

むしろ、くらやみ祭に現れている激しい原始性に「大国魂神社」の原点があった。大和や朝廷による支配を受ける前の、武蔵に土着する荒ぶる魂こそ「大国魂」なのだ。

これも、六所宮と呼ばれながら、土着の神が見え隠れする祭りが保持された結果と言えよう。

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大国魂神社の中にあるふるさと府中歴史館で「ふちゅう地下MAP」を手に入れた。この地図は、発掘調査でわかったことに基づいて「国府」としての府中にどんな場所や役割があったかを明らかにした地図だ。

これを見ると、国府の位置にそのまま「大国魂神社」があり、その南東、つまり巽(たつみ)の方角の崖下に祭祀場があったことがわかる。現在、大国魂神社本殿の南東には、境内末社として巽神社が祀られている。

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他の境内末社には、祀られている神の名や由縁が書かれている案内板があるのだが、ここには何もない。ウィキペディアの大国魂神社の項には、上の地図に示した、かつて「市川」と呼ばれた地域にあった「市神社」を遷したものだと書かれている。「市」ということですぐにわかるように祀られているのは「市杵島姫命」つまり「厳島」である。

さらに地図を見るとわかるように、市川と呼ばれた地域に隣接して古代の市の跡が発掘されている。ふるさと府中歴史館のVRによる映像では、日常の物を売買する場所としてのみ描かれていたが、祭祀に必要な物資をやりとりする場としても機能したのではないだろうか。

ここで行われた祭祀は、大国魂で行われていた土着のものではなく、大化の改新以降、西からやってきた「国司」によって新たに行われた「斎(いつき)」のスタイルだったと推測する。周囲に狛(高麗)江・新座(新羅の民が移り住んだところ)・高麗があるように、渡来の人たちも府中周辺にいたことを思うと、「秦」とつながる人たちが取り仕切った祭祀であった可能性がある。「市川」はやはりそうした祭祀を行う場であったからこそ「地名」として残った。さらに、そこで祭祀から派生する実務を行っていた人たちから「市川」という名前を名乗る人が生まれたのかもしれない。

市川・府中橋の「六所宮」から随分、脱線してしまったが、武蔵・府中を歩いたときにやはり八幡さまに出「遇」っていた。葛飾八幡宮は、鎌倉八幡、北小岩八幡、柴又八幡と葛飾の中で私が出「遇」った4つ目の八幡さまだったが、その週に歩いた場所での4つ目の八幡さまとして、先に武蔵国府中八幡宮に出「遇」っていたのだった。

雨だけでなく、風も強く吹き始めた中、八幡神社を求めて歩いていると、旧甲州街道に面して武蔵国府八幡宮の参道入口にぶつかった。

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参道は、途中、京王線の線路に寸断されていた。

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踏切の先には、樹々の生い茂る社叢林が広がっていた。このあたりは地名も府中市八幡町と言うぐらいで、地域を代表する神社であるはずだ。しかし、悪天候による印象を割り引いても、なんとなくもの悲しい雰囲気が漂っていた。社殿は参道の先にはなく、二の鳥居を過ぎてすぐのところで直角に左に折れたところにあった。

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林の中にはぽつんと小ぶりの社殿が一つあるだけだった。森自体は決して気の低い感じではない。せっかくの場所なのになんとなく荒廃した感じが残念だった。

社殿は西向きで、そのまま一直線に大国魂神社の東向きの鳥居と正対している。にもかかわらず、東にまっすぐ行ける道はない。

大国魂神社からは、品川道(注:大国魂神社を出たばかりのところでは京師道という名前)と呼ばれる道が真東に伸びていて、そのまま無理なくこの八幡にお参りする道が作れたはずだ。にもかかわらず、八幡さまの直前で下の写真のように道は途切れている。

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地図を見る限り、最近、分断したようにも思えない。あくまでも推測だが、今、家が建てられているところも八幡さまの境内の一角だったような気がする。

となると、あえてまっすぐ八幡に行けないようなルートにする意味があったとしか思えない。確かに、ここを右に曲がると、そのまま崖線に沿って八幡さまの境内に入れる道に出る。しかし、面白いのは、舗装されていない、古道のようなところを歩いていると知らないうちに境内に入ってしまうのだ。つまり参道はない。

道はないが、まっすぐ大国魂神社を見張るように直面している八幡宮の境内。なんともちぐはぐな大国魂神社と八幡さまとの関係。

いったいどういうことだろう……

その答えが、ふるさと府中歴史館の男子トイレの小便器の上の張り紙と府中小唄の碑から得られた。

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張り紙には、

 

大国魂神社は、八幡さまが嫌いだ!

 

はっきり書かれていた。

 

実は、私はトイレのちょうど目につきやすいところに貼ってあるこの紙を見落とし、一緒に歩いた友に言われて初めて気づいた始末。いろいろ歩いて見つける Feel℃ は上がっていたはずなのに、やはり八幡のフォースを受けている身には眼中に入らないということなのかと笑ってしまった。

 

さらに、歴史館の脇にある「府中小唄」の石碑にはこんな歌詞が刻まれていた。

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「あれは府中の六社さま 松は憂いもの杉ばかり」

松はいやなもので、正月の門松ですら竹にする。府中では、お正月に松飾りはしないで、竹飾りにすると言うのだ。

 

どうしてこうも松の木と八幡さまを嫌ったのか。府中小唄の歌詞を調べてみると、歌い出しがくらやみ祭について。そこから浮かび上がるのは、地元に根ざした土着の支配者と、国司として後からやってきた支配者との長年のにらみ合いがあったということだろう。

土着と対抗した対抗一族は、やはり「八幡=やはた=秦?」のような渡来系だったのか。そう考えるとそこにくっついてきた祭祀と技術に関わってやってきた「市川」もよそ者だったのではないだろうか。

府中市には、市川という名字の人が多く住んでいる地域がある。四谷という府中の南西部。南武線・西府駅の南、京王線・中河原駅の西の多摩川辺りである。この市川さんは、崖線の下を流れる古多摩川が「市川」と呼ばれていたことから、その近くに住んでいたために付けられたもので、「斎(いつき)」とは関係ないかもしれない。

砂州という松にふさわしい場所だったとはいえ、マンホールの蓋にも「松」が描かれていて、いまだに松を大事にする下総・市川。そこは八幡さまを大事にする文化だった。

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一方で、八幡さまと松をないがしろにする武蔵・府中。

しかし、どちらも国府の台地と崖下を流れる川と河原の斎場という「市川地形」と「市川機能」を持つところは一致している。

はっきりと「市川」という地名を残す下総と、なんとなく「市川」が消された感じの武蔵との違いは

八幡と松への対応の違い

に現れている。

さらにもう一つは「湊」の有無

だろう。

武蔵府中でも、多摩川を利用した水運はなかったわけではないだろうが、下総市川のように様々な川や海と交わる「湊」はなかった。海民と接点があった下総と陸路中心の武蔵との違いが人の心の開放性の違いを生んだような気もする。

となると、わが祖先のような「山の市川」がどんな経緯で生まれてきたか。そのあたりを妄想してみるのも面白いと思い始めた。