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歩きまわる哲人 梅棹忠夫と南方熊楠

梅棹忠夫と南方熊楠。どちらも徹底して材料を集め、記録した。さらに、どちらも、未来を予言する思いつきや大きなビジョンは示したが、体系だった知識は残さなかった。どちらかと言うと、とっ散らかったままの感がある。しかし、未来を的確に見つめる目はともにあった。それは、生態学的にものごとを見るという共通点があったからかもしれない。

梅棹や熊楠は、調べるターゲットのはっきりしたフィールドワークだけではなく、好奇心主導でフィールドワークを開始した。

「なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている」(梅棹忠夫『梅棹忠夫、世界のあるきかた』)

だからこそ、知らないことに出会うのは喜びであり、知らないことはなんでもスケッチし、書きとめ、そのとき、素直に思いついたことを記録して逃さないようにする。この梅棹の姿勢と熊楠のやり方はリンクする。

なんでも、かんでも、よくもまあと思えるほど、脈絡なくスケッチし、記録し、分類しない。分類しないが、いざそれが必要なときにパッと取り出せるように配列しておく。検索可能な状態にあればいい。体系的な知識を残さなかった熊楠と梅棹が、グーグル検索時代に脚光を浴びるのはまさにこの点。「固定した知識」はただ古びるのみ。過去の記録を、常に現代を解釈するために、そして未来を予測するために、繰り返し検索し、つなぎなおし、活用する。その「方法論」を、熊楠は「やりあて」と言い、梅棹は「知的生産」と言ったのだ。

とりあえず歩けば、何かに出会う。出会ったらそこで調べる。そのために梅棹は、ジープに本をたくさん積んで「移動図書室」と称した。

「現地で、実物をみながら本をよむ。わたしはまえから、これはひじょうにいい勉強法だとおもっている。本にかいてあることは、よくあたまにはいるし、同時に自分の経験する事物の意味を、本でたしかめることができる」(前掲書)

今ならスマホ一台でOK。スケッチ代わりに写真をとり、ググって調べ、思いつきをメモしておく。熊楠も梅棹も、今、生きていたら、

「こりゃあいい!」

と喜ぶこと間違いなしだ。しかし、彼らが、スマホ時代においても、いやスマホがあるならなおさら、フィールドワークにおいてもっと徹底しなければならない!と言うに違いないことが容易に思いつく。

「なんとなく歩くこと、とりあえず歩くこと、ひたすら歩くこと」

そして

「飯のたねではなく心のたしを探すこと」

ついでにもうひとつ

「なんてことはない物事に眼差しを注ぎ、なんてことはない語りに素直に耳を傾けること」

だ。歩けば、必ず気にかかる物事に出会う。それを大事にする。さらに、たまたま出会った人が語る思いにしっかり耳を傾けること。相手に「なりきる」ぐらいでないといけない。

「その人たちのかたることに、じっと耳をかたむけ、その人たちの人生体験を自分の体験とする。そして、自分のなかでその体験を整理し、くみたてなおすことによって、その人を自分なりに理解し、自分はいちだんと成長をとげる。それが人類学なのである。人類学は、おとなの学問であるとともに、おとなになるための学問である」(前掲書)

学問なんて実際の役に立たないことがほとんどだ。好奇心の赴くまま、ただ突き進む営みに実用上の意味や価値があるか、と言われれば、ないかもしれない。しかし、

「この地球上に出現した人類という知的生命体の栄光のために、わたしは学問にはげんできたのである」

人類学とはそれぐらいスケールの大きなものなのだ。

こんなことやってムダじゃないか

もっと効率的にできるんじゃないか

かったるいな、退屈だな

そんな思いにとらわれている自分から脱却し、飯のたねにはならない、心のたしを妄想する。そのために「歩き、考える」。ただそれだけである。