北白川こども風土記との「遇」
慶應義塾大学の井庭さんたちとの共著書がそろそろ刊行になる。出版元の慶應義塾大学出版会のウェブで「これから出る本」として紹介されているかなと思ってのぞいてみた。しかし、まだだった。ついでになんか面白い本あるかなと思い、ウェブのトップページをスクロールしてみると……
人文研探検 〜新京都学派の履歴書〜
という連載記事を発見してしまった。京都大学人文研と言えば、桑原武男さんが所長を務め、今西錦司さん、鶴見俊輔さんが所属したユニークな研究組織である。これは面白そうだ!と早速クリックすると、出てきた記事は、人文研を代表する研究者、上山春平さんが書いた『城と国家:戦国時代の探索』という本の紹介だった。
上山さんは、日本の国家体制の成り立ちは三つの段階に分けられると主張した。最初は、8世紀にできた律令国家、次に、17世紀にできた幕藩体制、そして最後が19世紀の国民国家だ。この中で2番目の幕藩体制だけが、海外の国家モデルをそのまま導入したものではない。日本独自の国家体制がいかにして律令制を打ち破っていったか。それを知るには荘園を侵略し、山城へと変化させたプロセスを追うのがよいと上山さんは考えた。そこで、単に文献を読むだけではなく、日本中の山城をフィールドワークして痕跡を探り、資料を探ろうとした。現地を大事にする人文研研究者の面目躍如である。しかし、山城についてのアカデミックな研究はほとんどなされておらず、どこにあるのかさえ発見するのが大変だった。京大から目と鼻の先の北白川にもかつて山城があり、足利氏と関係の深い場所だと言われているが、先行研究はない。そんな時に、北白川の小学校で社会科の授業の一環で『こども風土記』という本が作られたことがあり、そこに北白川の山城についての研究があるということを上山さんは知人から教えられた。
連載企画「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」第20回 より
上の写真は記事の一部である。上山さんの文章を読めばわかるように、小学六年生が書いた自分の身のまわりの地域について調べた作文が、アカデミックな研究の基礎資料として役立ったのだ。
北白川こども風土記……内容にもちろん興味があるが、どう作られたのかも含めて知りたい
という気持ちが強く湧いてきた。
とりあえず「北白川こども風土記」をキーワードにしてググってみた。すると、この本が書かれた経緯を取材した京都新聞の記事(2018年9月19日付)を見つけた。今(2019年)からちょうど六十年前の1959年に作られ、今年はちょうど節目の年だった。このため、春に京都文化博物館で記念展示が行われる予定であるという。いつもながらなんという「引き寄せ」のタイミングのよさだろう。
記事によると、戦後、新設された社会科の学びを活性化するために、郷土を実地調査を通じて学ぶ教育が1960年頃盛んに行われていたと言う。その一つのスタイルが「こども風土記」づくりで、各地で行われた。なかでも京都大学に近く、専門家の保護者が多数住む学区だった北白川小学校で作られた「こども風土記」は「超」小学生級のクオリティを持つものになったのだった。
これを読んだ梅棹忠夫は、
「これはおどろくべき本である。子どもというものが、よい指導をえた場合にはどれほどりっぱな仕事をすることができるか、ということをしめすみごとな見本である」
と絶賛した。
とはいえ、これは北白川という地域性がこの「風土記」のレベルにつながっているのは間違いない。
たとえば「こども風土記」にこんな一文が出てくる。
「ぼくはある日、おとうさんからこんな話をしてもらった。今から何千万年も大昔は、京都盆地から丹波高原にかけては海が入りこんでいて、大きな入江になっていたそうだ。ところが、それも長い間かかって、だんだんと水がひいていったあとには、へっこんだ京都盆地の付近に海水がたまって、それが湖になっていったと言われているそうだ」
この「おとうさん」は、地理学者で京大教授の藤岡謙二郎さん。そりゃあ詳しいはずである。
こうしたことが影響したのか、「北白川こども風土記」は、特殊な事例とされ、うちの学校・地域では無理となってしまい、あまり広まっていかなかったようだ。残念なことである。
こうなると無性に現物を手にして読みたくなる。だが、アマゾンや日本の古本屋を検索しても取り扱っていない。
そうだ。明日から京都へ出張ではないか。打ち合わせは夕方以降で、それまではフリー。早目に京都へ行って「北白川こども風土記」を探すことに決めた。
右京中央図書館との「遇」
京都市内の図書館ならばきっとあるはずと思い、蔵書検索をしてみた。予想通りいくつかの図書館にあることがわかった。そのなかで「開架」ですぐ閲覧できるところはどこかと調べてみると
右京中央図書館
だとわかった。右京中央図書館のウェブページを読み進めると、
京都に関する資料情報を集中的に扱う「京都大百科事典ゾーン」
があると書かれている。こりゃあますます行くしかない。
京都に着くと、すぐに地下鉄で四条まで行き、そこから嵐電の四条大宮駅までちょいと散歩する(この散歩で、いろいろ面白いものに遭遇したが、それはまた別の回に)。
右京中央図書館は、嵯峨野・嵐山に近い北西部の天神川にある。地下鉄に乗ったのなら、わざわざ四条で降りて歩かなくても、次の烏丸御池まで行って東西線に乗り換えれば、図書館がある終点の太秦天神川に着く。その方が大幅に所要時間も短い。
しかし、途中であえて横道にそれることが、今日、即つながらなくても、後々ひょんなつながりをもたらすモノやコトとの出会いをもたらす。それに、鉄男としては「嵐電」に乗りたいという気もあった。
路面電車でごとごと進む。いい年をして運転席の後ろに立ち、車窓の景色をあちこち見る。こういうことが地下鉄ではできない。
嵐電天神川駅に隣接して区役所や図書館の入ったビルがあり、図書館は三階。階段を登ると……
あった。
そして、すぐに「京都大百科事典ゾーン」が見つかる。
写真を見ればわかるように、棚の一画ではなく、棚4列の両面が端から端まで京都に関する本。お菓子、着物、伝統工芸、歴史、教育、人物など京都に関するあらゆることを調べられる。まさに京都百科事典コーナー。京都に関する調べ物をするなら、まずここに来ればよいのだということがわかった。
目指すは「北白川こども風土記」。すると、あちこち探す間もなく、ふらりと入った列の棚に
「待ってたよ!よく来てくれたね!」
と言わんばかりに置かれているではないか。
こども風土記以外にも、京都の地名由来だの、京都府の不思議事典だの、読みたい本だらけ。この近くに住んでずっと図書館に張りついていたくなってしまう。
しかし、鉄則は Less is more 。欲ばらない。また訪れればよいのだから、所期の目的の「北白川子ども風土記」に集中する。
早速、ページをめくり序文の京都市教育委員長の言葉を読んだだけでしびれた。
「この本を読んで何よりも感心したことは、皆さんが自分の目で見、耳で聞き、足で歩いて、自分の得心のいくまで郷土北白川を丹念に調べ、それに自分の考えや感想を加えてうまくまとめあげられたということです。例えば「大文字」のことでも、単にお話を聞いてそれをそのまま書いたというのではなく、実際に八月十六日の夜、如意が岳にのぼり、薪を運ぶところや、これに火がつけられそれが消えるまでのようすを実地に見学しています。また「大文字」の字画の長さも、書物で知ったことを現場へ行って実際に測ってたしかめています。さらに力強く思ったことは、四十余名のこうした研究調査に他のお友だちが、みんなしっかり手をつないで助けあっているということです」
現場を歩いて、試して、訊ねて得た「一次情報」を自分の言葉で書いてまとめる。決して本を調べるだけではない。そんな姿勢をきちんと認めているすごい教育委員長だなと思ったら、この一文は京都大学総長を務めた服部峻治郎さんが書かれたものだった。
四年生から六年生まで三年間かけてつくりあげただけあって、目次を見るだけでどれも面白そうだ。まずはめぼしいものをコピーして家に戻ってからじっくり読むことにした。
コピーを終えて、ふと思いついたことは、逗子でも「子ども風土記」を作ってみようかなということだった。
実は、昨年、逗子探究をした時に図書館の郷土コーナーで、「逗子こども風土記」を読んだ。こちらは平成元年に作られたものだった。ただ子どもの学習用に大人が書いた風土記であって、北白川のように子どもが調査して書いたものではない。だったらポスト平成の今年、子どもと一緒に「ネオこども風土記」を創ろうではないか。
北白川小学校の担当教諭は、これだけのクオリティの作品が出来上がったのにもかかわらず、満足しなかった。それは、
「郷土を学ぶことで地域の課題の改善を図る主体を育む狙いが、郷土自慢にとどまった」
からだった。なんというすごい教諭だろうか。専門家と出会い、素晴らしい発見も生まれたが、子どもの知識コンテンツを増やしただけだったと反省しているのである。
6Csの枠組みで見れば、じっくりコラボレーションとコミュニケーションすることなく、コンテンツを集め、地域の有能なサポーター(例・大学教授、一流の職人)と共にクリティカルシンキングを働かせた結果だった。したがって、賢くはなったが、本人の認識がゆさぶられ、これまでと違う意味づけでメタに郷土を眺める一歩にはならなかったということだ。あくまでも知識の正確さについてのクリティカルシンキングであり、社会をよりよくしてゆくという「メタ意識・批判意識」は芽生えなかったのである。
「こども風土記」と連動して、この時期盛んに行われた「生活綴り方」の場合は、子どもが素朴に抱いた疑問を素直に書くことで、自ずと自分たちの住む地域の矛盾や問題点が浮き彫りになった。「世の中はそんなもの」と惰性で生きる大人たちに対して子どもたちが「異議」を投げかけるきっかけとなった。
ただし、「生活綴り方」も、否定だけではなく、その代案として新たな社会的枠組みを自分たちが動き、われらごととして思考するところまでは到達しなかった。コラボレーション、コミュニケーションして生まれた課題意識は鋭く、必然的にコンテンツも巻きついてきたが、やはり多面的かつメタに見つめて、自分たちが新しいやり方や意味を見出そうとするクリエイティブイノベーションを考えようとする姿勢は出てこなかったのである。
とはいえ、「こども風土記」も「生活綴り方」も優れた実践であり、残された「宿題」に取り組むのは、私たちの役割である。
これからの世の中を新たな価値観で生きてゆくために、まず自分たちの住む地域の歴史を見つめなおすこと。そして、極めてローカルで小さな出来事と思われることが、地域・時代を超えて普遍的な意味を持つかもしれないと気づくきっかけをつくること。そんなことを目指す「逗子こども風土記」づくりを行ってみたい。
そんなことを考えて、京都大百科ゾーンの入口につくられたディスプレイコーナーの脇を通過すると、
ご自由にお取りくださいということでこんな地図が置かれていた。
図書館のあるビルの名前は「サンサ右京」。それと「散策」を語呂合わせしたネーミング。うん、これは完全に「おっちゃんテイスト」だ。
まだ時間があるので、このあたりも歩いてみるかなと思い、地図を眺めるとすぐ目に入ってきたのは、
市川神社
だった。
そんな神社があるなんて!またまたフォースに引き寄せられてやってきたとしか思えないな。
さらに、私が勝手に自分の守り神だと決めている「猿田彦神社」も通り道になるので、そこも寄っていこう。
ということで今日もまた偶発的「遇」によって動きまわっている。
さあ、この「遇」がどう発展して行くか。市川神社については次回のお楽しみ。