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思考も歩行も飛び石に(7)

偶をジェネレートし知遊する作法

「国府」としての「市川」

「市川」と地名がつくところに何か「似」ている部分があるかどうか探るとっかかりとして、千葉県の「市川」について調べてみて浮かび上がってきたことの一つが「国府」のある場所だったということ。

では、そもそもこのたんけんを行うきっかけになった「太秦」も「国府」だったのだろうか。そんな疑問が頭をもたげ、「太秦 国府」でググってみた。

すると……

太秦は山城国の国府だった時期があることがわかった。

国府のある場所に市川

とりあえずこの仮説はまだ追ってゆく価値がありそうだなと思って、あらにググったリストを眺めると、

律令時代における郡家の歴史地理学的研究

という論文がPDF化されていた。

なんとなく気になって読み始めると……

あ!市川だ!

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論文の中に太秦付近の地図があり、そこに「市川」とはっきり書かれているではないか。広隆寺と蚕の社の南の地域が市川村だったのだ。これまでどんなにググっても見つからなかった地図がたまたま見つかった。この地図の出典が論文に挙げられていないので正確にいつ、どこが、何のために作った地図なのかがはっきりしない。地名が右からの横書きになっているので戦前と思われるのだが、この地図の中に(ここではカットしてしまったが)「中日本重工業」の工場があるため、戦後三菱重工業が財閥解体されて分割された会社名になっているので昭和25年〜27年の間と推測される。その頃に「市川」と呼ばれた時期があったのか、足利先生が昔の地名である「市川」を書き込んで作成した地図だったのかは定かではない。

「太秦 市川」でググっても見つからなかった「市川村」を記す地図が、千葉の市川を調べ、「国府」と「市川」の関連に興味が生まれ、「太秦 国府」を検索項目としたらこの地図に出会った。こうした検索項目を、考えて予想することは難しい。ここにありそうだと決めて探すのではなく、流れの中で自ずと生まれてくる発見をひたすら追ってゆくのである。インターネットを使ってうまく散歩する流儀も、結局、実際に散歩するのと同じということ。虎視眈々ではないが、やみくもでもない。出遇いの一つひとつをないがしろにせず探索してゆくことの積み重ねが大事なのだ。

さて、この論文を書いた足利健亮先生は、京都大学教授で、人文地理学の権威。論文末の謝辞に、豊かな示唆を与えてくれた先生として藤岡謙二郎先生の名前が挙げられていた。

またつながった!

今回の「市川たんけん」の最初のきっかけは「北白川こども風土記」。そこからこうして連載を書き続けているわけだが、その第1回目で「こども風土記」を紹介した際に

「ぼくはある日、おとうさんからこんな話をしてもらった」

と書いた男の子の文章を引用した。そのお父さんが藤岡謙二郎先生だった。やはり、どこかでこの「たんけん」は先人の魂に動かされているような気がする。

ついでに足利先生の書いた本はどんなものがるのだろうとアマゾンで検索してみる。すると最初にヒットしたのが、

『地図から読む歴史』(講談社学術文庫)

だ。

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これは面白そう。きっとこれから「たんけん」してゆく上での発想のヒントをもらえそうな気がする。そこで早速、ポチッとする。

本との出遇いも、こうしてネット散歩している流れの中で突然生まれる。こうした連鎖は次々にとめどなく生じるので、それをひたすら追うだけで精一杯。そんな時に、あえてまとめようとすることはない。生じるままに進んでゆくのがいい。

再び「国府」と「市川」について探ることに戻ろうと思ったとき、足利先生について書かれたウィキペディアの中に気になる情報を見つけてしまった。

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足利先生は、京都に発生した「辻(つじ)・辻子(ずし)」という切り口で中近世の都市について研究をなさっているのだった。

この本について、別の研究者が書いたレビューには、

「鎌倉・敦賀・大津・坂本・兵庫津・博多・犬山・津島など、各地にみられる辻子の例をあげておられ、辻子呼称が中世京都の文化的・経済的活力の拡散現象であろうという視点に立つ結論を
出されている」

「辻子という 忘れられたような「町」の街路の一隅に、都市史の 真実や可能性があることを、著者は明らかにされた のであった」

と書かれていた。

「太秦・市川たんけん」は「逗子風土記」への序走だと書いたが、ひょんなことからそこへつながるヒントまで得てしまった。今はこれ以上深入りしないが、足利先生の出遇いによって、あまりにも豊かな「雑」のストックが生まれてしまった。

さあ、今度こそ「国府」と「市川」について探るぞと思ったところに

市川海老蔵、団十郎襲名

というニュースが入ってきた。

「市川海老蔵さんこと堀越寶世(たかとし)さん……」

歌舞伎の「市川」は芸名であり、本名ではない。しかし、初代団十郎もそうだったのか。ちょっと気になって、海老蔵・団十郎オフィシャルサイトをググってみる。

すると……

団十郎の祖先については謎につつまれており、いくつかの説があると言う。

まず、葛飾郡市川村から出たという説。千葉・市川にいたのならば、子宝に恵まれるよう祈願するために成田山に詣でたという話とも整合性がつきやすい。

もう一つは、奥州の「坪の碑(つぼのいしぶみ)」の近くにある市川村から出たという説。

奥州というと東北。東北に市川村があったということか。さらに「坪の碑」とはなんだろう。

調べてみると、江戸時代に多賀城址で発見された、坂上田村麻呂が大きな石の表面に矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕にもなっている。つまり、多賀城址に市川村があるということだ。

多賀城と言えば、蝦夷攻略の拠点としてつくられた鎮守府、そして大和の北限である陸奥国の国府のあった場所。政治的・軍事的な最重要拠点と言えるだろう。そこに市川村があった。

 

実際に地図で確かめてみる。

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なんと沼と多賀城と陸奥国総社に囲まれた場所が「市川」ではないか。ちなみに、多賀城跡の正式住所は、多賀城市市川である。

スタートは「団十郎」だったが、見事に「国府」につながった。

「国府」とは言っても、山城・太秦、下総、陸奥と重要拠点となる「国府」のある場所が「市川」である。桂川、江戸川、砂押川と言った「川」のそばにある「市」とは何か。多賀城址のある辺りは政治に関わる場所で、「市場」があったとは思えない。発掘調査の結果、城址よりも南に、東西に走る大路があり、そこに碁盤の目状の街があったことが明らかになった。と考えると、商いが行われた「市」は多賀城址よりも南、つまり地名の「市川」よりも南の地域である。こう考えると「市場」があったから「市」の字が使われているとは簡単に片づけられない。「市」にどのような意味が込められているのか、それがこれからの課題だ。