サイトへ戻る

永井荷風に Feel℃ Walkを学ぶ

濹東綺譚は Feel℃ Walk のバイブル

この本は間違いなく時代を超越した古典なのだと興奮する本との出会い。どうしてそう感じるかというと、書かれた時代の生の息遣いが著者の声として聞こえてくること。そして、そこで書かれていることが昔のことではなく、まさに今、私たちが抱えている課題を見事に予言していることである。その意味で、荷風の『濹東綺譚』は間違いなく古典だ。

濹東綺譚を書いた時の荷風の年齢に自分が差し掛かり、相変わらず、世に染まず、風来坊な生き方をしている境涯も重なり、すぐ傍らに荷風先生がいて対話しているかのようだった。本を読んでいるのではない。喫茶店で話を聞いているとしか思えなかった。荷風を色街に遊んだエロオヤジ。退廃的な世捨て人。あるいは小説家と思っているとしたら、大間違い。彼は、一級の人類学者であり、言語学者であり、エスノグラファーである。江戸後期から明治の風俗、そして関東大震災によって失われた江戸の情緒、習慣、言葉遣いといったものを、「小説」の体を取って見事に描写している。フィールドワークの手法や、文章を記録する時の心構え、言葉遣いの変遷なども、さりげなく披露していて、素晴らしい探究の教科書だ。

「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしはしばしば人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るようなような誤に陥ったこともあった」(『濹東綺譚』p.29)

「背景の描写を精細にするには季節と天候にも注意しなければならない」(p.30)

苦界に追いやられた「堕ちた女」こそ、社会の鏡であり、彼女たちのつらくも、健気な生き方。時代にまみれつつ強く生き抜いてゆこうとする姿を心から美しいと思っている。それは、彼女たちを見下し、排除することで、粋がっている人たち。一見、身綺麗でありながら薄汚れた社会を作り出している張本人たちを告発する静かなる怒りの眼差しだ。荷風の『濹東綺譚』は、紛れもなく社会派ルポルタージュだ。

この本が発刊された昭和12年(1937年)は、日中戦争開戦の年。世の中の浮ついた状況が、荷風の描いた銀座の光景から読みとれるではないか。

「洋服の身なりだけは相応にしていながらその職業の推察しかねる人相の悪い中年者が、世を憚らず肩で風を切り、杖を振り、歌をうたい、通行の女子を罵りつつ歩くのは、銀座の外他の町には見られぬ光景であろう」(p.108)

戦争の足音など聞く耳持たず。昔も所詮こんなモラルなのだ。教育勅語の時代、修身の時代が聞いてあきれる。

「正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が堕ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がかえって沢山に摘み集められる」(p.96)

さて、この本、片手にまた向島を歩くことにしよう。

broken image

2014年にノーベル賞を受賞したフランスの作家、パトリック=モディアノは、受賞講演の中で、偉大な作家として永井荷風の名をあげた。

「もっとも偉大な小説家たちの何人かは、ひとつの都市に結びついています。バルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルク、東京と永井荷風……」

フランス文学者の石井美子さんが、フランス人の友人になぜ荷風が好きなのかたずねてみてわかったことは、荷風の小説を通して、明治末から昭和初期の東京を知ることができるということだった。東京散策を著した随筆を読んでも、聞いたことのない地名や知らない人物ばかりが出てきてイメージがつかみにくいはずなのに、どうして荷風の小説はそうならないのか……

「作中の現在を生きる人物とともに読者は歩きまわり、人物の心情をとおして風景をながめるので、細かな地名を知らなくてとも東京の街がその人物のまとう衣のように魅力的な色彩と陰影をみせる」(石川美子『東京人』2017.12月号 p.85)

「『濹東綺譚』では主人公がやたらと移動している。歩くだけでなく自動車や電車にも乗る。さまざまな地名がたいへんなスピードで押し寄せてくるが、それぞれが雰囲気と季節感をもっているので、つぎつぎと目に飛び込んでくる風景を読者自身が歩きながらながめている気分になる」(同上)

荷風の為したファンタジーワークを「読む」ことで、「脳内」フィールドウォークが始まる。「君の名は」をはじめとして、アニメや漫画では、作品の中で描かれた、実際にある土地や店が、読者によって巡礼されるという事態が起きている。その先駆け、さらにはイメージではなく、文章表現によって、読者を散歩しているかのように誘うところに荷風のスゴさがある。そこにモディアノ氏も魅了されたのだろう。

夏目漱石『草枕』

森鷗外『渋江抽斎』
永井荷風『濹東綺譚』

「探究」を「作品化」する時の「お手本」と言えよう。そのうえ「インスタ俳句」の元祖で師匠でもある。荷風の日記『断腸亭日乗』が書き始められて100年目の冬が始まろうとしている。

断腸の思い百年 江戸の果て 端求

broken image

日和下駄散歩の極意

永井荷風が、アメリカ・フランス在住を経て帰国した後、慶應義塾に職を得て、『三田文学』に連載したエッセイが『日和下駄』。日和下駄を履き、蝙蝠傘を持って、ただ都会の町を歩く Feel ℃ Walker の先達です。

ということで、私がこれぞ!と思った部分を抜粋しました。

「裏町を行こう、横道を歩もう。」

「蝙蝠傘を杖に日和下駄をひきずりながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする。これは何も今時出版する石版ずりの東京地図を嫌ってことさら昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄ひきずりながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができるからである。」

「見よ不正確なる江戸絵図は、上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き、柳原の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山より遠く日光・筑波の山々を見ることを得れば直ちにこれを雲の彼方に描き示すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味津々よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも、はるかに直感的また印象的の方法に出たものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治・法律・教育万般のこと、尽(ことごと)くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸絵図の如し。」

「江戸絵図はかくて日和下駄、蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩み行けば身は自からその時代にあるが如き心持となる。」

「名所古蹟は何処に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯、その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味がつながれるのである。」

永井荷風『日和下駄』より TQ Feel℃ Walk の心得を抜粋

永井荷風の随筆『日和下駄』は次のような章立てになっている。

一 日和下駄

二 淫祠

三 樹

四 地図

五 寺

六 水(附・渡船)

七 路地

八 閑地

九 崖

十 坂

十一 夕陽(附・富士眺望)

一章を「序文」。つまり荷風の東京散歩論とすれば、残りの十章で東京散歩の観点を示している。東京を10の視点で歩いているのである。

ただ、荷風先生は、

「江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質でなければならぬ」

と書いているように、風景を愛でて歩くことと庶民の生活を垣間みることは一体だと考えていた。荷風流の散歩の先達は、ローカルなワンシーンに映し出される「人間ドラマ」を記録し、表現する江戸時代の戯作者だった。

● 一 日和下駄 

「東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道をたどるに外ならない。これに加うるに日々昔ながらの名所古蹟を破却行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味わおうとしたらエジプト・イタリーに赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷いたましい思いをさせる処はあるまい。今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る時には必ず貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒のない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打ち仰がれるのである」

「一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない」

「この頃私が日和下駄をカラカラ鳴らして再び市中の散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を拒まない。しかし私の趣味の中には自ずからまた近世※ヂレッタンチズムの影響も混じっていよう」

※ ヂレッタンチズム=アマチュアの趣味人 

「市中の道を行くには必ずしも市設の電車に乗らねばならぬときまったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として濶歩すべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は亜米利加風の努力主義を以てせざれば食えないときまったものでもない。髯を生やし洋服を着てコケを脅そうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の蓄えなく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する阿諛の目的物なぞ一切皆無たりとも、なお優游自適の生活を営む方法はすくなくはあるまい」

「されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探りこれが保存を主張しようという訳でもない」

「元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘に日和下駄をひきずって行く中、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して、しばし我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである」

●二 淫祠 

淫祠とは、「公」に認められた神社・寺院ではなく、道ばたにあるお地蔵さまや小さな祠のことで、そのあたりに住む人たちや旅の人が個人的につくり、庶民の中でひそやかに拝まれてきたものを言う。

「裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴らして行く裏通りにはきまって淫祠がある」

「淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或ある趣きを添える上からいって淫祠は遥かに銅像以上の審美的価値があるからである」

「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである」

●三 樹

「もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流にまつものと断言する。山の手を蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である」

●四 地図

「蝙蝠傘を杖に日和下駄をひきずりながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする。これは何も今時出版する石版摺の東京地図を嫌って、ことさら昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄ひきずりながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができるからである」

「凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に優るものはなかろう。しかしこれを眺めても何らの興味も起らず、風景の如何をも更に想像する事が出来ない。土地の高低を示すげじげじの足のような符号と、何万分の一とか何とかいう尺度一点張の正確と精密とはかえって当意即妙の自由を失い、見る人をしてただ煩雑の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き、柳原の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山より遠く日光・筑波の山々を見ることを得れば直ちにこれを雲の彼方に描き示すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味津々よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥かに直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治・法律・教育万般のこと、ことごとくこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸絵図の如し。更に語を換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである」

「江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩み行けば身は自ずからその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京中には何処に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗なもしくは荘厳な風景建築に出遇わぬかぎり、いろいろと無理な方法を取りこれによってわずかに幾分の興味を作り出さねばならぬ。しからざれば如何に無聊なる閑人の身にも現今の束京は全く散歩に堪たえざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想をたよりにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちにパリーのカッフェーに擬し、帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式偽文明が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩に対しては、東京なる都会の興味は勢い尚古的・退歩的たらざるを得ない」

●五 寺

「つえのかわりの蝙蝠傘と共に私が市中散歩の道しるべとなる昔の江戸切絵図を開き見れば江戸中には東西南北到る処におびただしく寺院神社の散在していた事がわかる」

「私は目的なく散歩する中おのずからこの寺の多い町の方へとのみ日和下駄をひきずって行く」

「私はかように好んで下町の寺とその附近の裏町を尋ねて歩くと共にまた山の手の坂道に臨んだ寺をも決して閑却しない。山の手の坂道はしばしばその麓に聳え立つ寺院の屋根樹木とあいまって一幅の好画図をつくることがある。私は寺の屋根を眺めるほど愉快なことはない。怪異なる鬼瓦を起点として奔流の如く傾斜する寺院の瓦屋根はこれを下から打ち仰ぐ時も、あるいはこれを上から見下ろす時も共に言うべからざる爽快の感を催させる」

「私は市中の寺院や神社をたずね歩いて最も幽邃(ゆうすい)の感を与えられるのは、境内に進み入って近く本堂の建築を打ち仰ぐよりも、路傍に立つ惣門を潜くぐり、彼方なる境内の樹木と本堂鐘楼等の屋根を背景にして、その前に聳える中門または山門をば、長い敷石道の此方から遠く静に眺め渡す時である」

「私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの額縁にして境内をうかがい、あるいはまた進み入って境内よりその門外を顧みる光景に一段の画趣を覚える」

「日本の神社と寺院とはその建築と地勢と樹木とのまことに複雑なる綜合美術である」

●六 水

「東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川・中川・六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所・深川・日本橋・京橋・下谷・浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如きその名のみ美しき溝渠(こうきょ)、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池、角筈十二社の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側の桜ヶ井、清水谷の柳の井、湯島の天神の御福の井の如き、古来江戸名所の中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった」

「東京市はかくの如く海と河と堀と溝と、仔細に観察し来たればそれら幾種類の水――即ち流れ動く水と淀んで動かぬ死たる水とを有する、すこぶる変化に富んだ都会である」

●七 路地

「路地の光景が常に私をしてかくの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如きあるいはわが浮世絵に味うが如き平民的画趣ともいうべき一種の芸術的感興に基づくものである。路地を通り抜ける時、試みに立止って向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿っぽく薄暗くなっている間から、彼方はるかに表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに賑やかそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。夜になって此方は真暗な路地裏から表通の燈火を見るが如きはいわずともまた別様の興趣がある。川添いの町の路地は折々忍返しをつけたその出口から遥に河岸通のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である」

「路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じように、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ずから彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車、富豪の自動車の地響きに午睡の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引きの女房によって仔細に伝えられ、喘息持ちの隠居が咳は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中うちに自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である」

●八 閑地

「私は雑草が好きだ。すみれ、たんぽぽのような春草、ききょう、おみなえしのような秋草にも劣らず私は雑草を好む。閑地(あきち)に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝の縁に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「かやつりぐさ」の穂の練絹(ねりぎぬ)の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「赤の飯(まま)」の花の暖そうに薄赤き、「おおばこ」の花の爽やかに蒼白き、「はこべ」の花の砂よりも小くして真白なる、一ツ一ツに見来たれば雑草にもなかなかに捨てがたき可憐なる風情があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にもうたわれず、宗達・光琳の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は喜多川歌麿の描いた『絵本虫撰(むしえらび)』を愛して止まざる理由は、この浮世絵師が南宗の画家も四条派の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾い取って、自由にこれを芸術化せしめた大なる功績を担うものである」

●九 崖

「数ある江戸名所案内記中その最も古い方に属する『紫の一本(ひともと)』や『江戸惣鹿子大全』なぞを見ると、坂、山、窪、堀、池、橋なぞいう分類の下もとに江戸の地理古蹟名所の説明をしている。しかしその分類は例えば谷という処に日比谷、谷中、渋谷、雑司ヶ谷やなぞを編入したように、地理よりも実は地名の文字から来る遊戯的興味に基づいた処がすくなくない。かくの如きはけだし江戸軽文学のいかなるものにも必ず発見せられるその特徴である」

「根津の低地から弥生ヶ岡と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂きに添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向うは一面に遮ぎるものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなきゆくえをも見極められる。左手には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され、そこより起る雑然たる巷の物音が距離のために柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、『かの平和なる物のひびきは 街まちより来る……』といったような心持を起させる」

●十 坂

「山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快瀟洒なる船と橋と河岸の眺めを専有する下町を羨むの余り、この崖と坂との佶倔(きっくつ)なる風景を以て、大いに山の手の誇とするのである」

「東京の坂の中にはまた坂と坂とが谷をなす窪地を間にしてむかいあわせに突立っている処がある。前章市内の閑地を記したる条に述べた鮫ヶ橋の如き、即ちその前後には寺町と須賀町の坂がむかいあいになっている。また小石川茗荷谷にも両方の高地が坂になっている。小石川柳町には一方に本郷より下りる坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に対時している。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然温泉場の街が出来たのかと思わせるような処さえある」

「日和下駄の歩みも危うくコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心ひそかに念じているのである」

●十一 夕陽

「夕陽の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である」

掃苔という遊び 墓マイラー 荷風

「掃苔(そうたい)」という言葉がある。耳慣れない言葉であろう。「苔(こけ)を掃(は)く」つまり、墓参りしてお墓についた苔をむしり、きれいに掃除することだ。今風に言えば「墓マイラー」ということだ。もともとは先祖のお墓にお盆のときにお参りするという意味合いだったのだが、自分の先祖ではない、関心のある人のお墓を巡るという墓参を「掃苔」と呼ぶようになった。このような墓参は、江戸時代から見られ、明治33年には『見ぬ世の友』という冊子まで刊行された。こうした系譜の中で作られた雑誌が、その名もズバリ『掃苔』で、満州事変の翌年、1932年に刊行され、12年間、第百号まで続いた。その第2号にはこう書かれている。

 

「第一に墓場は楽しい談話室であり、散歩場である。……(中略)……第二に墓場は尊む可き修養場である講演会場である。……(中略)……第三には好箇(こうこ=絶好と同じ意味)の研究室としまた瞑想場にも充つることである」
 

狙って参るときもあれば、たまたま見つかるときもある。いずれにせよ、墓を介して想を得ることは、キワモノでも、不謹慎でもない。むしろ、歴史をわが身に引き寄せ、過去とつながり、今会えぬ人と親しく心を通わせる Feel ℃ Work の中核をなすプロセスと呼べるのだ。

 

もちろん荷風先生も「掃苔」を愛し、こう書いている。

 

「何事にも倦(あき)果てたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を掃(はら)って、見ざりし世の人を憶(おも)ふ時なり。見ざりし世の人をその墳墓に訪(と)ふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、寒暄(かんけん)の辞を陳(のぶ)るにも及ばず、手土産たづさへて行くわづらひもなし。此方(こなた)より訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に耽(ふけ)りて、去りたき時に立去るも強て袖引きとどめらるる虞(おそれ)なく、幾年月、打捨てて顧みることあるも、軽薄不実の譏(そし)りを受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静かなる日、その墳墓たづねて更にその為人(ひととなり)を憶ふ。この心何事にも喩(たと)へがたし。寒夜ひとり茶を煮る時の情味、聊(いささ)かこれに似たりともいはばいふべし」(永井荷風『礫川(れきせん)徜徉記(しょうようき)』大正13年4月20日)